メアリー・ブレア展をみてきたよ

初期のディズニー映画のコンセプトアートを手掛けた女性だそうな。


コンセプトアートというか映画のたたき台って言う感じかね。
複製を壁にガーッと張ってあるのが再現されていたけど
あれを前にしてウォルトやらアニメーターやらが意見を戦わせていたのだろうね。


分量もたいしたことないだろうと高をくくっていたけどかなりのものだよ。
仕事の性格上、一枚いちまいに時間はかけていないのだろうけど
構図や配色のバランスをみているとはっとするものがあるよ。
やっぱり正当な近代絵画の流れがあるんだろうね。
まあ、絵はまったくの素人だけど。


地面とかビンクに塗ったりしているけど
ゴーギャンにみたいに観ていて目眩のするような感じはないかな。
・・・少なくともアニメのコンセプトアートに関しては。


後半はプライベートに描かれたものだけど
ちょっとぞくっとする絵もしばしば。
絵画の枠を外れて表現を模索している感じだね。
絵に立体を貼付けて、その上からさらに絵を描いてみたり。
あれは写真で見てもピンとこないから現物をみれてよかったと思う。


とにかく、あの頃のディズニー映画って凄いインパクトだっただろうから
それのビジュアル面のコンセプトを手掛けた人のイマジネーションって
ほんとに凄いと思ったよ。
そのころのディズニーの映画の曲ってジャズのスタンダードになってるしね。

最近読んだ本がごった煮になって疑問がいっぱい。

僕は熱心な読書家ではありませんが、本を読んでいて疑問にぶつかることはしょっちゅうあります。
特に多いパターンは前後に読んだ本の視点から別の本を眺めたときにぶつかる疑問です。
いつもは考えても答えが出ないので、放置しやがて忘れるだけですが
書いとけばいつか役に立つかも知れないので自分のためのメモとしてひとつづつ書いていくことにします。


今回の視点の中心

この本では、武家的な倫理を持ち身内な中で完結しようとすることによって安心を保証する「安心社会」と
商人的な倫理を持ち開かれた社会の中で公平な制度によって信頼を確保する「信頼社会」の対比をしています。
この本で著者も触れていますが、元々日本の商人の間では「信頼社会」の要素をもった社会で
武家や農村の「安心社会」とは異なった倫理観をもっていますた。

より詳しくはイザヤ・ベンダサン氏の「にっぽんの商人」にも触れられています。


さて、中世社会と日蓮宗を書いた「戦国仏教」では日蓮宗が商人の間に広まっていく様子が描かれています。

戦国仏教―中世社会と日蓮宗 (中公新書)

戦国仏教―中世社会と日蓮宗 (中公新書)

しかし、日蓮宗は(あくまで僕のイメージですが)排外的でどちらかといえば「安心社会」を理想とする宗教に思います。
真宗門徒と取引しないでは商売にならないだろうし、そもそも当時は政治より商人にが大陸との関係を繋いでいたはずなので
排外的ではやっていけなかったと思うので、どのようにして日蓮宗が受け入れられたのか、
そのことによって日蓮宗がどのように変質したのかが非常に気になります。
一応、日蓮宗が普及するにあたって妥協することは書かれていますがそれでもまだ腑に落ちない点はあります。

政府紙幣ってなんだろう

政府ではなく民間や個人からみた政府紙幣って結局なんだろう。


利子のない国債と同じだとみると、利子のある通常の国債より政府紙幣を選択するメリットはあるのかな?
どうせ持ってるだけなら利子がついた方がいいよね。


紙幣としてみると、日本銀行券と比べて便利なことがあるのかな?
いざ使うにしても自動販売機で使えないし、絶対今までの紙幣の方が便利だよね。


結局、僕たちは口で偉そうな御託を述べたって
最後は利益や利便性が(少なくともある程度は)判断の基準なのだから
明確にそれが見えないとなかなか流通しそうにないよね。


僕個人としては、政府紙幣に本音では賛成なんだ。
20%の失業率になるくらいなら、10%のインフレを我慢した方がましだと思う。
でも、うまくいく算段がないと諸手を上げて賛成しにくいよね。


結局、これはもう無理矢理にでも流通させるしかないよね。
だったら定額給付金政府紙幣で行うべきだと思うんだ。
普段もらったり、使ったりしているお金が突然見たことのないものに化けたら戸惑うけど
振ってわいた話ならそんなもんかもと受け取るよね。


僕は政府紙幣を発行しようとする人たちから本気を感じないんだ。
こんな普通の人々が得体の知れないと感じるものを流通させるには強引さが足りない。
日銀に対するブラフかも知れない。
でもプレフなればこそ、相手を恐怖させるほどの執念が必要だと思うんだ。
「だからもうベーシックインカムを制度として導入してそれを政府紙幣で行うことを検討する」
くらいのことは言っちゃってもいいと思うんだ。

昨日で仕事納めだったので、

昨日で仕事納めでだったので一日ぶらぶら
 まんが喫茶 >> 古書店 >> 食事 >> 映画
と一日を堪能しました。



古書店の収穫

五行循環

五行循環

易と日本の祭祀―神道への一視点

易と日本の祭祀―神道への一視点

十二支―易・五行と日本の民俗

十二支―易・五行と日本の民俗

ま、あまり読書は速い方ではないので何ヶ月か掛けてボチボチと。

あともう一冊数学の本、大学4年時の講義で教科書なしの講義ノートのみの単位があって
その範囲がかぶっている本を買ってみました。

復刊 作用素代数入門―Hilbert空間よりvon Neumann代数

復刊 作用素代数入門―Hilbert空間よりvon Neumann代数

ぐぐってもあまり引っかからないなぁ、はずしたかなぁ。
もう何年も数学の本読んでないんでどうせ読まないんですけどね。



映画
映画はPIXAR作品 「WALL・E」を鑑賞。
話の持ってき方、小ネタのはさみ方、映像のつくり、うまいなぁとただただ感心します。
世界観は、「未来少年コナン」っぽいし、警備ロボットの出動は「ラピュタ」だよなとか
宮崎アニメの影響はあるかなとか、少し勘ぐりますね。

この映画観る前にちょうど「地球へ…(テラへ)」を読んだのですが
プロットは結構重なるものがあります。
普遍的なテーマですが、どちらも見事に料理して傑作に仕上がってます。

地球へ… 1 (Gファンタジーコミックススーパー)

地球へ… 1 (Gファンタジーコミックススーパー)



映画版の「地球へ…」も観てみようかな。

winXPのgvimでpython2.5を有効にしてコンパイルする方法、覚書

手順はこのサイトを参考にしています。
参考にしているとよりもまんまですが、ビデオをもう一度見るのがかったるいので内容の要約のメモです。
ちゃんとした説明がほしい方はリンク先のビデオを見てください。
(2.6とか3.0が出ても同じように作業できるはずです。)


まずは通常通り、gvimをインストールしておきます。


次にここからWindows版のGCC(でいいのかな?)、MinGWをインストールします。
インストールオプションでbase toolsとmakeを有効にしてください。(他は必要に応じてご随意に)
環境変数pathにC:\MinGw\binを追加します。参考
ついでに、後々に便利なようにC:\MinGW\binのmingw32-make.exeのコピーをmake.exeという名前で保存しておきます。
これでコンパイラの準備は完了です。


vimのダウンロードページからPC用のソースをダウンロードします。
(ver7.2であれば、vi72src.zipというファイル)
便宜上、"C:\projects"というフォルダにファイルを展開したという前提で話を進めます。
"C:\projects\vim\vim72\src"フォルダにあるMake_ming.makを編集します

  • #PYTHON=c:/python20となっている行を"PYTHON=pythonがインストールされているフォルダ"に変更します
    • (python2.5の場合は通常PYTHON=c:/python25)
  • 7行くらい下のPYTHON_VER=22の数字の部分を自分が使うバージョンに変更します。
    • (python2.5の場合は25)
  • rubyインターフェースとかも必要な方は同様の作業を自分のバージョンに合わせて変更してください。


コマンドラインで"cd C:\projects\vim\vim72\src"して"make -f Make_ming.mak gvim.exe"を実行、待つことしばし。
makeされたできたgvim.exeを実行ファイルのあるフォルダ("C:\Program Files\Vim\vim72"など)のものと入れ替えます。

gvimを立ち上げて

:python print "hello world"

がうまく実行されればOK。お疲れ様でした。

ついでにautocomplpopを入れとくと超便利!


追記:
CUI版のvimコンパイルするのはほば同様の作業ですがMake_ming.makでGUI=noとして実行すればうまくいきます。

「もう一人のキルケゴール」とナチズム

経営学者はナチだとか、左翼はナチだとか、なんか方々で誰かが誰かをナチ呼ばわりしてる世界は生きにくいね。でも、ナチズムってなんなのさ。ドラッカーを話に絡めている人がいたので、ふと思い出した文章があって書架をあさっちゃったよ。ごそごそ。

今日紹介したいのは25ページほどの小論だよ。
はじめて読むドラッカーシリーズの「イノベーターの条件」や「すでに起こった未来」(原題: The Ecological Vision)の最後の方に収録されているよ。どっちも論文集の形をとっているけど、書かれた時代がまちまちだから読むときには注意が必要だね。


「もう一人のキルケゴール」(The Unfashonable Kierkegaard, 1949)
ドラッカーは興味は常に社会にあって、この小論をのぞくすべての著作は社会に関するものだと書いているよ。(本当がどうかは知らないよ、ドラッカーの著作を全部読んだ訳じゃないから。)ちょっと引用するね。

 キルケゴールは、他の宗教思想家と同じように、「人間の実存はいかにして可能か」という問いを中心に据えた。
(中略)
 十九世紀においては、「社会はいかにして可能か」というまったく異質の問いが中心となった。この問いを提起したのがルソーであり、ヘーゲルであり、古典派経済学者であった。
 そして、マルクスが一つの答えを出した。一方では、自由主義的なプロテスタンティズムが別の答えを出した。しかし、そのような問いは、どのような形で提起されようとも、社会なくして人間の実存は不可能であるという答えしか導くことはできない。
(中略)
「人間の実現はいかにして可能か」という問いを同時に提起せずして、「社会はいかにして可能か」という問いを提起するならば、必然的に、個人の実存や自由の存在を否定する答えが出てくる。

ドラッカーはずっと社会に関する著作を書き続けたけど、この小論ではそれだけじゃだめだよ、って言っているんだね。


僕はナチズムという言葉を出す人がどのような意図でいっているかわからないけど、彼らからみると「人間の実存はいかにして可能か」という問いが抜け落ちているように見えるのかも知れないね。でも「人間の実存はいかにして可能か」という問いはみんなにとって凄く重要だとしても。同時に極めて個人的でデリケートな問題で合意をはかるのが凄く難しい問題なんだと思うな。だから、「人間の実存はいかにして可能か」という問いが表に出ていなくてもその問いを無視していると考えるのは早計じゃないかな。ドラッカーもこの小論以外では一貫して社会を論じていたのだから。


きっと、僕たちのするべきことは「人間の実存はいかにして可能か」という問いを心におきつつ、よりよい「社会はいかにして可能か」の答えに合意をはかっていくことなんじゃないかな。

マイケル・ブレッカー

私がジャズを聴き始めた中学時代に
繰り返し聴いていたアルバムが二枚。


千回は聴いたのではないだろうか。
当時はCDを買うお金がなかったのでレンタル屋で借りてきて
テープに落として聴いていた。

先日、ビパッブ系のダンスイベントでDJのT氏との雑談中に
マイク・ブレッカーの話題となったのだが
去年に亡くなられたと聴いて驚いた。


彼以降のサックス奏者で彼に感化されていない者はいないだろう。
筍のように彼のフォロワーが現れ、
また他の楽器の演奏者にも影響を与えた。
彼は真に偉大なジャズマンであったし、
彼の音楽は私の青春時代の一部であった。


合掌。