「もう一人のキルケゴール」とナチズム

経営学者はナチだとか、左翼はナチだとか、なんか方々で誰かが誰かをナチ呼ばわりしてる世界は生きにくいね。でも、ナチズムってなんなのさ。ドラッカーを話に絡めている人がいたので、ふと思い出した文章があって書架をあさっちゃったよ。ごそごそ。

今日紹介したいのは25ページほどの小論だよ。
はじめて読むドラッカーシリーズの「イノベーターの条件」や「すでに起こった未来」(原題: The Ecological Vision)の最後の方に収録されているよ。どっちも論文集の形をとっているけど、書かれた時代がまちまちだから読むときには注意が必要だね。


「もう一人のキルケゴール」(The Unfashonable Kierkegaard, 1949)
ドラッカーは興味は常に社会にあって、この小論をのぞくすべての著作は社会に関するものだと書いているよ。(本当がどうかは知らないよ、ドラッカーの著作を全部読んだ訳じゃないから。)ちょっと引用するね。

 キルケゴールは、他の宗教思想家と同じように、「人間の実存はいかにして可能か」という問いを中心に据えた。
(中略)
 十九世紀においては、「社会はいかにして可能か」というまったく異質の問いが中心となった。この問いを提起したのがルソーであり、ヘーゲルであり、古典派経済学者であった。
 そして、マルクスが一つの答えを出した。一方では、自由主義的なプロテスタンティズムが別の答えを出した。しかし、そのような問いは、どのような形で提起されようとも、社会なくして人間の実存は不可能であるという答えしか導くことはできない。
(中略)
「人間の実現はいかにして可能か」という問いを同時に提起せずして、「社会はいかにして可能か」という問いを提起するならば、必然的に、個人の実存や自由の存在を否定する答えが出てくる。

ドラッカーはずっと社会に関する著作を書き続けたけど、この小論ではそれだけじゃだめだよ、って言っているんだね。


僕はナチズムという言葉を出す人がどのような意図でいっているかわからないけど、彼らからみると「人間の実存はいかにして可能か」という問いが抜け落ちているように見えるのかも知れないね。でも「人間の実存はいかにして可能か」という問いはみんなにとって凄く重要だとしても。同時に極めて個人的でデリケートな問題で合意をはかるのが凄く難しい問題なんだと思うな。だから、「人間の実存はいかにして可能か」という問いが表に出ていなくてもその問いを無視していると考えるのは早計じゃないかな。ドラッカーもこの小論以外では一貫して社会を論じていたのだから。


きっと、僕たちのするべきことは「人間の実存はいかにして可能か」という問いを心におきつつ、よりよい「社会はいかにして可能か」の答えに合意をはかっていくことなんじゃないかな。